「ことば」とは
過日エッセイにも書きましたが、「言葉」とは人間が作り出すもの。私は言葉は少ない方が良いと思っています。言葉を扱う場に身に置きながら矛盾しているようなのですが、言葉を扱うからこそ実感しているのです。俳句は17文字という制限された中で人間の発露を表現します。これをするには個々の言葉が内包するものを考え、理解しなければなりません。
昨今の状況を観察していると、いわゆる「言葉狩り」が行われている一方で意味不明な言葉が乱造されています。「自己責任」もそのひとつでしょう。これを聞いたときは正直申しまして、私のアタマでは理解でませんでした。何故政治家や公僕がこのような言葉を使うのか。本当の主権は人民にあり、公僕は単なるヘルパーでしかないのです。それを「権力」と勘違いし、「指図するのは俺たちだ。おまえらは黙っていろ」という思いがあるからこそ出た言葉ではないかと思います。権力者に楯つく輩は死ね、ということでしょう。なんという専政的なロジックでしょうか。またこれを素直に聞く日本人は古来より支配されるのが民族的に染み付いており、奴隷根性が払拭されていないと言えるのではないでしょうか。我々日本人は未だ「自己」を確立できていない民族と言えるのでないか。その言葉を自分に向かって問いかけ、内包するものを見いだし、反芻し昇華しなればなりません。
「迷惑」という言葉も日本独特の語彙だと思います。これを英語では「trouble」、「annoyace」 等々と表現します。「厄介な」「いらだち」「わずらわしさ」などとなります。日本語の「迷惑」とはニュアンスがかなり違うような気がします。これらを公僕たちが主権である人民に対して恫喝の如く言うのはそもそも間違っているのであり、彼らが自らを「権力者」と勘違いしている証左です。
我々日本人は過去の悪習を考え直す時期に来ているのだと思います。真の民主主義を実現するか、このまま過去の悪習を引きづり、「専政国家」で行くか。日本の未来は現在の我々にかかっているのです。 |